今週のお題「告白します」
中学生の頃に学校の帰りに町の古本屋にふらりと寄ると、
表紙カバーの色あせた年季の入った横山光揮先生の「三国志」全60巻がセットで3000円か5000円くらいで売られているのを見つけて、チャリンコ飛ばして家に帰って貯めていたお年玉を崩して店に戻って買い、チャリンコのカゴに入れて倒れないように気を付けながら持ち帰って以来、その後の人生の悩んている時や苦しい時に読み返しては新しい発見と気付きを得てなんとかまだ生きてることを告白します。
特に思い出深いのはまだ若手の頃に仕事において一プレイヤーからリーダーとなるべく小さなチームの進捗管理も求められるようになった時の頃に何気なく読み返した次の場面です。
劉備は劉表の世継ぎの話で長男を推したため蔡瑁の襲撃を受けてしまいます。
密告の助けで檀渓を跳んでなんとか逃れた先は偶然にも水鏡先生(司馬徽)の家でした。そして、劉備の不運は運命ではなく関羽、張飛、趙雲のような豪の物ではない足りない人物がいるためと教えを受けます。
水鏡先生(司馬徽):
君主というものは家来を一団体としてみなければなりますまい
自分自身をくわえ
なにか欠けてないか
なにか不足してないかを
つかまえなければなりません
足りないものに気付いた劉備はやがて臥龍鳳雛を迎え入れて蜀を得ます。
(アニメ版だと「優れた君主は家来を一つの集団と見做し、欠けているものを補う」だったような)
一プレイヤーあるいは一作業者であったときは誰かが決めたスケジュールの中でがむしゃらに自分のタスクだけをこなしていけばよかったです。
ところがリーダーともなるとそうはいきません。
チーム全体としての進捗の報告が求められます。自分だけではなくチームメンバの進捗も管理してゴールに向かって進まないといけません。
そのためにはチームとしてのゴールに向けて今のメンバーでは足りない人間(専門家、作業者、管理者など)、ツールや環境、会議等の運営、作業の課題問題が無いか考えて先手打って対処していかないといけません。
そんなことは当たり前だろと思うかもしれませんがとびっきりに頭の回転の悪い自分にはその意識自覚もなく、それまでと同じような感覚でいたので当然チームとして遅れます。そして、遅れる進捗に対して何とかしろと上から言われて当時の自分はどうしてよいかわからずパニックでした。その結果たどり着いたのはなんとかしようと思って遅れた分は自分が残業してカバーしてました(今の自分だったらできねーできねーと周囲にわめき散らしてサポート(犠牲者)を増やすでしょう(この辺は打倒董卓の檄文を発した曹操の影響でしょう))。
くたくたで疲れて迎えた週末。現実逃避でもしたかったのしょうか、
何気なく手に取った三国志を読んでいて水鏡先生こと司馬徽の「君主とは」の言葉が目に止まりました。
今のチームに足りないものはなんだろう?
(たぶん、あれこれとめどなく考えていきついた先に)
なんで問題や悩みを教えてくれないんだろう?
チームメンバーの声をちゃんと聴いていただろうか?
作業の問題、疑問を聞き出そうとしていただろうか?
みんなとちゃんとコミュニケーションとれてただろうか?
足りなかったものは自分自身の中にありました。
社会人になってようやくコミュニケーションの重要さを水鏡先生から気付かされた瞬間でした。フランクに聞いてみればちょっとした思い違いが雪だるま方式に膨らんでいたり、不要な検証をしていたり、作業手順が冗長だったりとチーム内でちゃんとコミュニケーションができていれば防げたものが多かったように思います。
立場や価値観、考え方は時間とともに変わっていきます。だからたまに三国志を読み返すと、最後に読んだ時とは違った視点で生き方や考え方に再発見があります(もちろん、それは三国志に限った話ではないです)。
これからもたまに三国志を読み返して激動の世を生きる術を英雄から授かっていくことでしょう。